SSブログ

母性社会日本の病理 (1976年)  河合 隼雄 [本]


母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)

人と勉強について話していると、あれ?と違和感を感じることがあった。
どうも、やる気になればできるはず・・・という考えが前提にあるようなので、話したいことが伝わっている気がしない。
なぜだろう、と頭の片隅にとどめておいたら、その回答がこの本に。

平等主義である母性と能力主義である父性。日本は母性である平等主義。
平等であるはずだから、できない人間は努力が足りない・・・という考えに直結するというのだ。
ありがとう、すっきりしました。

また、平等だからこそ、その【場】における能力差は差異を感じさせ易く、たやすく人格否定に結びつく。
周りも自身もできないことを認めるという作業がしにくいというのも、自己肯定感の薄い子供たちの実態に直結する。
そういう意味でヘキサゴンのおバカタレントも必要なんだろなと。テレビでは歌などの能力、容姿、ギャグセンがその【場】の能力なので、そちらに置き換えてるだけといえばそれだけなんだけど。

私は習熟度別の基礎コースを担当しているので、たまに気持ちが苦しくなってしまう。
できないことを認めてくれない母(父親選ばなきゃです(笑))や自分自身と一生懸命、折り合おうとしている。
西洋では習熟度での学習は当然の権利! チャンスととらえられるように要対応だわ。


この手の内容は何回読んでも意味がつかめたとは言い切れないハズ。奥深いなぁ。

●自我の確立のために、実際の親殺しなどおおがかりなイニシエーシェンを必要とする。
・・・ゲド戦記での親殺し、物語だから必要なのに! 批判するほうが間違っている。
・・・政治家が徴兵制など、戦争を美化する潜在的な原因はここにあるのだろう。

●母性という快さをベースに、上がったり下がったりで連続性がない。
・・・これは日本の流行の姿。だし、自分自身にもつながる。

●【場】を重要視するあまり、場から居なくなると想像が及ばない。
・・・これは今の特別支援の在り方は日本では難しいということに、直結する。
発達障害バブル(石川憲彦)で、インクルージョンの名のもとに排除されている矛盾*
障害を持っていても、日本的なダイナミズムの中に我が子を置きたい・・・と言う友の気持ちに納得できた。
今、校内で交流はしてはいるけど、むずかしそう。
学校内での能力区分が数学だけだけど、そうあるべきなんだろな。塾じゃあるまいし。
私立は行かせなくて正解。行けないけど。

●【場】の中では序列を必要とする。
・・・先輩後輩とか。今にして思えば独特~。
その場のチカラ関係で、重要視される能力が容易に変わってくるのも体験で知っている。
チカラ?(当然、言葉等の暴力も含まれる)ある人間が自分に都合のいい価値観を打ち出すから面白い。
この手のことには冷めていて、だからナンダロウと思いながらも演技する。

*浜田寿美男 著書より 対人関係で苦手な子供をとりだして、ソーシャルスキルを磨かせるが、周囲の教師や支援対象でない子供たちの、支援対象者とのソーシャルスキルと確実に落ちていく。特別支援教育は問題を子供自身の側において一方の向上のみを求めている。
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。