SSブログ

前回ブログ『KOTOKO』を観て〜の感想をもらった。 [movie]

前回の映画『KOTOKO』を観て〜の感想をもらった。言い当てられてドキリとした。

「作品から受け取った感動に恥じないようとする責任感。」
「書かずにはいられなかったのでは」

まさにそう。けれどもすぐに書いたわけではなくて、見終わったダメージも大きかったから、すぐに言葉で断ずることもできないまま、傷跡を放置しておいた。
そうしたら、傷跡からジクジクとリンパ液が出てくるように、言葉がジクジクと漏れだして、そのうえ頭の回りを纏わり付くだけど、まとめる気になれなくて。
朝日新聞の評を読んだら、ちょっと背中押されて。文章を重ねることで、やっと出すことが出来て、そしてやっとまとまった。

動揺すると自分の中で熟成させようしてるのか、どこかで距離を置こうとしてるのか、まとめるのが遅くなる。

とりあえずひとつまとまると、飛び交ってたものが、収まる。

飛び交う念が自分のお経で少しずつ成仏する。合掌したくなる。

あ、表現ってそんなものかな。



「寓話。醜いもの、否定的なもの、そして暖かいもの、肯定的なもの、その全てが合わさって初めて本当の美しさが現れる。」

まさに。
これは、二律背反した母性のありように救われていくモチーフなんだと思う。


書いた後で宮台真司氏の評も読んだ。面白い。

【連載:宮台真司の超映画考】第10回「三本の「震災映画」から、映画の可能性を見通す 〜『ヒミズ』『KOTOKO』『RIVER』〜」 寺脇さんの論考に続き、今回の宮台さんの連載もまた「震災-映画」について論じられています。

“「疲れた男」が「聖なる娼婦」に救済される”
「ここではないどこか」を切望するのでなく、自分の居るこの場所をひたすら真下に掘り続けることで、突如、地球の裏側という「ここではないどこか」へは突き抜ける驚き。実際、突き抜けた先には「女が踊る、沖縄の海」という神話的空間が拡がっていたのだ。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=954


昨日は塚本監督との対談があった?

#eiga 映画KOTOKO、宮台真司さんと塚本監督とでトークイベントが。宮台さんが最後に質問した「映画の中の沖縄は、人が求める正しい世界の象徴なのか?それとも、失われてしまった二度と手に入らない世界の象徴なのか?」良い質問だったけど、答えはこれからの映画でというオチも良かった

んだとか!捕われてるなぁ。
『ここではないどこか、に行くことへの飽くなき欲求』は
何故なんだろう。肉体があるからか。男だからか。


聴きたかったな。




※二律背反した母性 
地母神イザナギは全てを産み出した偉大な母の神であるが、黄泉の国を統治する死の神。 かくて、母性はその根元において、生と死の両面性を持っている。産み育てる肯定的な面と全てを呑み込んで死に至らしめる否定的な面を持つ。 『昔話の深層』河合隼雄 
 
(母性の両面性)
        死 
     呑み込む 
     誘い込む 
     つかむ 
     包含する 
     支える 
     育てる 
     実らせる
        生


コトコノコ

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:moblog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。