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鹿をもって馬となす。原発を「安全」という人達~原子力推進システムの再稼動。 [雑感]

【馬】を「原発の安全性」。
【趙高】を「原子力産業(兵器を含む)で均衡を保つシステム(世界規模)」

と置き換えると、現状がすっきりみえる気がするのが下の話。


*馬鹿の語源の説として、「鹿をさして馬となす」があります。

 始皇帝が亡くなった後、権力を握っていた宦官の趙高が、果たして自分はどれほど恐れられているか確かめるため、二世皇帝である胡亥に鹿を「馬である」と言って献じました。二世皇帝は「何を馬鹿なことを言っておる、鹿ではないか、なあ」と群臣達に言ったものの、群臣達は趙高の権勢を恐れ、「陛下、あれが馬であることをお解りになりませぬか」と答えたとか。
 もちろん勇気ある者、もしくはその場の空気を読んでいなかった者の中には、「陛下の仰るとおり鹿でございます」といった者もいましたが、それは趙高に処刑されました。

このことより、「馬鹿」とは自分の権勢をよいことに、矛盾したことを押し通す意味から転じたという。


馬鹿には増えて欲しくない。



原発については、火力発電との二重稼働を前提にしているからコストが膨らむのだ、と新聞記事。
いっそのこと、廃炉にすれば、値上げなどは発生しない。

ところが…
廃炉にすることで、原発関連の資産は負債に転じる。株式会社という仕組み上、電力会社は潰れていくようだ。
ただ見かけの損益のバランスが価値を持つ世界。

なんらかのシステム上の出口がないと、電力会社も、産業におんぶしている政府も、原発にしがみつくのは当たり前だとも思う。

こんな仕組みにふりまわされて、経済学者さん何とかならないの?


また、巨大な原子力産業の世界的な潮流のなか、日本の役割は「原爆を落とされた被爆国でも原発を受け入れている」とアピールする駒だった。ここでの再稼動はまたしても、その駒の役割を果たそうと、日本人らしい勤勉さを発揮している結果なのだとうつる。


地震国、日本。地殻の変革に対する警告は無視なのか。

安全を想定をすること自体が自然に対する傲慢。この傲慢さは、移り変わる自然と共に生き、諸行無常を生活に織りいれてきた民族性に相反している。民族性の放棄と同義ではないのだろうか。(※玄侑和尚『無常という力』参照)

寒村の土地を蝕むことを止め、自国の資源を見つめ、ダイナミックに原子力から転換した国を手本にし、せめて脱原発に向けての方針を示しながらの再稼働を望む。




※【趙高】を置き換える言葉が実はすっきりしてない。



再稼働考察2013.3.31
長期スパンでのリスク論者と短期スパンでの資本家寄りリスク論者との対話が成り立っていない様子が見て取れる。
短期スパンでのリスク論者は、内実は軍事が経済を、暴力が国家を成り立たせてきたことを内なる前提としている。だから、長期スパンでの「倫理」的な思考と経済と国家を維持する為の「損得」勘定をもとにした思考は平行線なのは当然だ。
「原発」は資本主義的な目先の「損得」で考える思考システムの象徴であることが、日の本にさらされて、尚且つ容認されようとしている。「原発再稼働」は短絡的な経済思考システムの再稼働の象徴ということなのだろう。
これは皆の都合という「道徳」ではなく「倫理」の問題ということだろう。

これらに携わる、世界に目を向けた人々が国内と国外に向ける顔が違うことも抑えておいた方がいいのかもしれない。そして愚かなのは経済システムの価値観を鵜呑みにしてミッションを得たかのように冷笑してまわる人々だ。一体、何を産み出すのか。

【参照】

※『無常という力』 玄侑宗久氏 講演会内容
http://www.genyusokyu.com/koenkai/koku11.html   【上智大HPより】

玄侑氏は、「いざとなったら逃げるしかないという思いを保つことは怯えを保つことであり、それは日本人の信仰の根底にある自然への畏怖の気持ちを保つことになるのではないか」と述べ、自然に敵対して勝つという発想を持たないことが大事であると指摘しました。
また、地震、津波や火山など、自然災害と古来より向きあってきた日本人の宗教観について、「根幹にある自然への畏怖の念に、一時も止まることなく変化し続けることを指す『無常』という考え方が加わった」と述べました。「今日は今日で良い日。昨日と続きではない。今この瞬間を生き、今を味わう日日是好日(ひびこれこうじつ)という禅の考え方は、自然災害が多い故の日本人独特の発想である」と述べる一方で、「割り切ることができずに引きずってしまう感情。忘れられないし、忘れたくないという感情。これらの感情は『もののあはれ』の気持ちと言える。生死に対する感受性があるゆえに芽生えるこの気持ちと、『無常』の拮抗する概念が、日本人の宗教的な感情を生み出している」と語りました。


※民族生存の要諦  【山科恭介 夢想弄翰】
http://kyosukeyamashina.blog62.fc2.com/blog-entry-1211.html

自分たちに強く影響を与える “時の権力者” が代わろうとも、自分たちの生活は変えようとはしない 「ある恒常性」 が日本民族の精神性に存在している。土地と伴にあって、時にずる賢く、時に従順であり、それでも自身の生活実態を変えようとしない民族は、時に歴史そのものを貫く。

世界の歴史の中で天変地異や悪政で滅んだ国家は多いが、日本という弱小国家が現在でも幾ばくかの地位を確保しているのは、この強靱なる地域精神性が民族の内面に存在しているからに他ならない。
つまり、どの様な状況になろうと、その土地さえあれば、日本民族は存続の可能性を保持している。

だがそれは、豊穣な土地と人々の生存あっての話である。
直接被曝はもとより、全国にばら撒かれた放射性汚染物質内部被曝により、日本民族のDNAは既に致命的に毀損されているのだ。

民族滅亡への序章が始まったことをまずは認知せよ。
そして、その対策に全力をもって立ち向かわねばならないことは自明である。




  
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コメント 2

春分

難しい問題で私は話題にするだけの力量はないのだけども、でも、
私は再稼動は致し方なく、再稼動判断は正しく、でもやはり脱原発は必要
なのだろうと言うスタンスです。
何にしろ作っちゃったものを無くすことはできず、起きた事故も無くせない。
動かしても動かさなくてもやっぱり危険で動かしても動かさなくてもコストが
かかるのだから(正確には違いはあるでしょうけども)と思うことと、脱原発
の方の意見に誤解や偏見や臆病や無知を見るからです。まあ原発の側も
無責任や強欲が見えるわけだから、「究極の選択」かとは思いますが。
風力のバードアタック問題や地熱の温泉利権問題やそもそも温暖化はどう
したかとか、あるけども。冷静に知識を正しく臆病にならず騙されず、判断
したいですよね。
あー、またこの件は長く書いちゃった。だめだー。
by 春分 (2012-06-23 18:43) 

あゆこ

コメントありがとうございます。

春分さんのスタンスに同意です。
電力会社が独占しているので、提出されている判断基準も本当かどうかも判断しにくい状態ですよね。報道内容を判断基準としますが、新聞によってもバイアスが違いますしね。ざっくり言うと、どちらが多数派かを察したがり、村八分に恐怖を感じる民族らしいので(こういうの嫌いでしたね。ごめんなさい。)、私も新聞に流れる空気を見ながら・・・と言ったところでしょうか。新聞が主なソースなので反原発派の、無知だという意見はよく知りません。とにかく戦時中と異なり、世界からの判断基準も流れてくるのでよかったな、と思っています。

ただ、テラ級の核廃棄物の実態は紛れもないことですよね。
(事故前からの反対派でした。)

姜尚中さんが紹介していたウェーバー系の経済学者E.F.シューマッハー 『スモール イズ ビューティフル』で、もうこういう流れは予見されていますね。ちやんと読もうと思いつつ良く読んでいませんが・・・↓わかりやすいのがここかしらhttp://d.hatena.ne.jp/TOOFAR2/20110604/p1

と思ってここのブログ読んでみていたら、発見です。
ありがとうございます。勝手にもりあがってます。
思想が、経済優先の流れを作ったのならば、それを差し止めるのが、古来からの思想、宗教感ってことなのかな。

と、思いつつ、太古の地球は放射性物質だらけでしたので、太古の記憶をもとに何かが人類を導いているんじゃないかと、どこか見放しているのが現状です。

あー、またこの件は長く書いちゃった。だめだー(笑)

by あゆこ (2012-06-24 19:54) 

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